お侍様 小劇場

    “きっとのお帰りをお待ちして(お侍 番外編 12)
 


 
 この冬は、おや暖冬なのかしらと思わせといて、足元を掬うかのように途轍もない極寒がやってくる、暖冬とも厳冬とも言えない、どこか目まぐるしい寒さとなるでしょう…という長期予報を聞いた覚えがあって。暖冬だった前の冬だって、時折とんでもなく吹雪いての豪雪が結局は降ったりしたのだし、どんなに穏やかでも寒さへの用心はしておくに越したこたないんでしょうねと、

 “覚悟してたこたぁしておりましたが。”

 それでもやっぱり、骨身に染むほどの寒さは困りものですよねと。明日は寒さも和らいで、平野部にまで雪をもたらした雪雲も去り、すっきりした晴れ間が見えるでしょうとの予報へ。やれやれという苦笑混じり、観ていたテレビをオフにする。この冬何度目のそれか、天気予報での気圧配置図にとんでもなく目の細かい渦巻きが描かれていたのへと“爆弾低気圧”の襲来を予感して、気欝になった二月最後の週末も何とか過ぎ去って、
“来週はもう三月なんですねぇ。”
 何とはなく、壁にかけられたカレンダーに目がいったのは、この島田さんチの家事を預かる、ご町内でも評判の“良妻賢母”こと七郎次お兄さん、その人で。風呂上がりの髪もすっかりと乾いて、そのつややかな金の光沢をうなじで束ねられており、湯冷めせぬようにとパジャマの上へ羽織っていた厚手のフリースのカーディガンのポケットで、携帯電話がヴ〜ンっと震えてから、かれこれ十分少々ほども経っただろうか。
「…あ。」
 再びの振動にソファーから立ち上がると、玄関までをとたとたと急ぎ足。年若な一人息子が…今時の若者には珍しくも とうに寝ておろう時間帯。よってのことか、こんな夜分のドアチャイムは控えたかったらしい、そんな配慮へ素早く応じてドアを開ければ。ポーチをほんのり照らすよう、レンガの外壁部へ据えられた、アンティーク調のランプのような形をした玄関灯。その灯火に柔らかく照らされて立つ、夜気の香をまとった御主の姿がそこにはおいでであり。
「お帰りなさいませ。」
 やっとのご帰還に、自然と待ち人の表情も和らいで。抱えてらしたブリーフケースを受け取ると、さあさお上がり下さいませと暖かな空気でくるみ込みつつ促す所作にも、隠し切れない感情が滲む。日曜でも関係なくの出勤で当家の御主が担うのは、世界へもその名を知られた一流商社に設置された“幹部秘書室”の統合担当。しかも、所属する秘書らの人事的管理さえしておればいいというのは表向き、実は…数多
(あまた)いる役員格“辣腕”幹部の方々の、対外交渉に於ける手腕への補佐統括という微妙なお仕事が本業であり。お歴々の分刻みのスケジュール調整は元より、突発的なアクシデントへの速やかな対処やフォローまでもを完璧にこなせる、一流ホテルのコンシェルジュ並みの知識とコネクションと、機転という名の応用力やそれによる英断を生かせるだけの行動力を持ち合わせ。問題が起きなければ起きないで、皆様が精力的に本日こなした会議や会合、レセプションなどなどでの結果や収穫の全てを、報告される端から整理したり、物によっては次の段階へと進展させやすいよう、根回しや下処理の部署へ先んじての申し送りをしておかねばならず。大型プロジェクトが動いている最中なぞ、数人分の役員の動向を全て把握し、尚且つ、彼らに繋がりがあろう対外関係者へも観察・監視の網を張っての注意に余念がない状態となるがため、ともすれば当事者たちより集中や体力を消耗させられるお立場だったりする彼で。
「お疲れさまです。」
 本当は目上の方には言ってはいけないねぎらいの言葉だが、それでもつい、口を衝いて出てしまうのだろう七郎次からのそんな一言へ。気を張っていたところが“もういいんですよ”と言われたようで、御主の側でも殊更に癒されるらしく。よって…咎めるどころか、コートや背広の上着を引き取られつつ、その柔らかな語調にあうと、ついのこととて口許がほころぶ勘兵衛様であったりし。日常着へと着替えられた御主の、コートやスーツをハンガーにかけ、寝室の壁に作り付けのウォーキン・クロゼットの、扉の内側に一時吊るして…と慣れた手際で片付けている青年の。伸びやかな腕の動作の健やかさや、淡色の金糸をたばねた陰に見え隠れするうなじの白さへ、ふと視線が及んだ勘兵衛が、

 「…っ、勘兵衛様。////////」

 無防備な背をすっぽりと、その懐ろへ抱きすくめれば。お戯れはいけませぬと身を堅くし、肩をふるると震わせて見せて、
「お、お風呂に浸かって来て下さいませ。」
 こんな些細なことへもいまだ馴れ切らず馴れ合わぬ、いつまで経っても初々しいままなところがまた愛おしい。そんな催促なぞ聞いてやらぬと知らん顔、ますますのこと、ぎゅうぎゅうと抱き込めてしまい、戸惑っての身じろぎさえ心地いいとばかり、肌触りのいい髪へ頬を寄せて動かないでおれば、
「越後のいいお酒を買ってありますよ?」
 以前 勘兵衛様が話しておられた蔵元のです、燗をしておきますからほら早くと。酒で釣っての亭主の尻が叩けるようになったのは、どこの誰から教わった手管やら。そんなことくらいでやすやすと気が逸れるほど、そうまで浅い情ではないのだが。彼にも彼の段取りがあろうと、それでも名残り惜しげに腕を緩めての解放してやり。ホッとしかかる隙を衝き、顎を掴まえての振り向かせがてらに唇をついばんでやって、

 「…っ!////////」

 不意を突かれて固まったままな、恋女房をその場へ残し。やっと離れて湯殿へ向かわれた壮年の御主様。漆黒の蓬髪に肩の輪郭を覆われた、大きく頼もしい背中を見送って。憤慨したり怒るより、
“…お元気だなぁ。”
 今日だって そりゃあ大変なお仕事を一日がかりで片付けて、終電車で帰って来たばかりだってのにと。強ばっていた撫で肩をすとんと落としつつ、つくづくと感心している七郎次だったりするのである。





  ◇  ◇  ◇



 寒波は去りつつあったとはいえ、真冬の凍えるような夜陰の垂れ込める中を帰って来た御主であり。ゆっくりと湯に浸かっていただいて、パジャマ姿で戻って来られたリビングでは、好みの温度へと燗をつけた日本酒を、頂き物のクチコを添えてのお出しする。
「ほぉ、これは珍しいものを。」
「五郎兵衛さんが、車の配送先からのお土産にと。」
 気さくな男二人のお隣りさん。腕のいいメカニックの平八殿が受注した特別車を、日本各地のご贔屓筋へと自分で運転して運んでゆくのが五郎兵衛殿の担当だそうで。何でも昔はデイバッグ1つであちこち旅して回った揚げ句、その紀行文をもって大学の卒論にし、しかも再編したものを出版して大枚を得たという剛の者。なので、旅慣れてもおいでだし、どんなに様相が変わってしまった土地であれ、妙に土地勘のようなものが鋭く働く性分をしてらして、カーナビなぞ使わずとも迷子になったことは一度もないのだとか。とはいえ、
「ほら、年末の福引で当てたハワイ旅行に今日から旅立たれたんですよね。」
 二人で出掛けて来ますので、留守中をお願い致しますとのご挨拶も兼ねてのご来訪。よって、
「何日ほどか、少し寂しくなりますねぇと。」
 昼下がりには毎日、どちらかの家のリビングでお茶していた間柄。そういや、ヘイさんが旅行に出掛けるなんて、初めてのことじゃあないかしらって、今頃気づいたくらいでしてねと。小粋な所作にて徳利を傾け、酌をしていた七郎次の言いようへ、
「…。」
 少し節の立った大振りな手には相変わらずに小さく見えるぐい呑みを、口許へと運びかかった勘兵衛が、その手を止めて…少々考え込むような表情を見せる。たった二人しかいないから、というよりも、それはそれは大切な存在だから、
「? どうされました?」
 こんなささやかなそれであれ、その気配を嗅いでの不審を覚え、いかがされたかと案じてしまうも自然のこと。自分はお世話の関係で床のムートンの上へと座していたもの、御主からの目配せで腰を上げ、すぐお隣りへと座り直せば。

 「…明後日から1週間ほど、カナダへ向かうこととなっての。」
 「カナダ?」

 それはまた急なことですねと、仄かに眉を寄せた七郎次であり。だが、
「その間、連絡は取れぬ。」
「あ…。」
 手短な付け足しで、それが勤め先絡みのものではないと即座に判って…表情が引き締まり、背条も伸びてしまうのは、もはや条件反射のようなもの。
「では、お支度は…。」
「ああ。何も要らぬ。」
 明日の帰途、そのまま空港近くの合流地でスタッフと顔合わせをし、そのまま発つ予定だと、それは淡々とした口調にて告げた勘兵衛であり、

 “…。”

 ちらと覗き見やった御主の横顔は。まだ任に入っていないというに、どこか冴えての獰猛な気勢をその身の裡
(うち)へと蓄えつつあるものか。口許や眼差しの端々へ、日頃の落ち着きようとは明らかに温度の異なる、笑みの気配を浮かべておいで。例えば生命を脅かされていて動けぬ存在を国外までお連れしたり、例えばその印璽をあるべき場所にはないと広めれば立場が悪くなるお人の窮地を補佐したり。時折そんな大変なお仕事が回って来る、政府には関わりがないものの、あちこちの国家機関との結びつきは強いらしき、不思議な組織がこの国の“地下”だか“裏”だかにはあって。それを束ねているのが、彼の家系を主家とする“島田”の一族の真の生業(なりわい)であり。善いも悪いも引っくるめ、歴史上の事実・真実をのみ語り継ぐ“証しの一族”の末裔で、公けにされず極秘とされた記録の全て、様々な虚偽蒙昧を完全否定するための切り札を山のように蓄えし“御書”を、埋もれて行方不明にさせることなくの徹底した保管をするのが代々のお役目。それを補填することへ連なる事態であるならば、その筋のどこへだって通用する“絶対証人”として現場に居合わせる必要から…ともすれば危険な仕儀への招集さえかかるという、厄介な家系でもあって。
“だから…。”
 現在の当主である勘兵衛が、なかなか跡取りを作らぬこと、分家がやきもきしているのも判るし、その一方で、こんな危険で理不尽な血統なぞ、自分の代で終わらせたいらしい勘兵衛自身の心情も七郎次には重々判る。自身の母親が、愛していた夫とされど無理矢理の離婚を構えたのだって、島田の一族の真の姿を知ったから。その生業を目前へとかざされたなら個々人の幸せなぞ後回しにされる、今時あり得ないほど封建的な一族であり、そんな掟へ大切な我が子を巻き込みたくはなかったし、何より、非力な自分や子供が夫の居場所や自由への重しにされ兼ねないのだと気がついてそれで。逃げ出すような強引さで家を飛び出し、行方をくらまし、島田家との縁を絶ったのだと今なら判る。ただ、

 “お気づきではないのだろうか。”

 他者へは無理から押しつけたくはないと。それほどまで危険で乱暴で、時に人の生死をその手で左右し得るような場面へも居合わせる、それほど恐ろしい生業だということへ。だが、ご自身は厭うておいででないような、そんなお顔をなさることが稀にあり。恐ろしき刃のような牙や爪持つ獅子や豹のような猛獣が、雄々しき肢体をゆったりと寛がせながらも…その眼光だけは炯々と光らせているかのように。どんな活劇に翻弄されるのか、どんな死地の縁を巡ることとなるものか、もしやして楽しみにしてでもおいでのようなお顔を、ほら今もなさっておいで。覇者にはなりえないが、ともすればそんな覇者さえ滅ぼすほどもの、非情な真実のみを喰らい続ける一族の。冷酷なほど淡々とした血というものが、彼にも色濃く流れているというその証しであるのだろうか。

 「七郎次?」

 何に気を取られたものか、少々意識を逸らしていた連れ合いだと気づき。案じるようにこちらを覗き込んでくださるお顔は、深色の眼差しといい低い声音といい、常の包容力に満ちた優しい彼のそれだったので。
「何でもありません。」
 ふわり微笑って盃を満たす。そうして、

 「お気をつけて。」

 淡と一言。まだ早いがそうと告げれば、
「何だ、あっさりしたものだの。」
 それこそ拍子抜けしたと言わんばかりな声を出される勘兵衛で。
「昔は、いつ戻れるや判らぬと告げるたび、まるで今生の別れのような顔をしたものだったのだがの。」
 それが今ではそんなにも呆気ないのだからと、肩透かしを喰ったこと、残念がっておいでだけれど。
「そうは仰せですが。」
 それでも揺るがぬ白いお顔が、くすすと微笑って言い足したのが、

 「必ず帰っておいでになられるものを、どうして案じることが出来ましょうや。」

 おろおろと不安に取り憑かれるなぞと、まるで勘兵衛様の資質を信じていないようではありませぬかと。しゃあしゃあと言ってのけたは、十年にもなろうかという、お傍づきとしての蓄積の賜物か。青玻璃の目許を細めての、はんなり微笑った嫋やかなお顔をつまらなさそうに眺めやり、

 「昔はお主、真っ青な顔をしてすがりついての離れなんだものがな。」

 しかも、戻った儂が辛抱利かずでむしゃぶりつけば、ワタクシこそ待っている間に気が違ごうてしまうかと思いましたと、かわいいことを言うてくれての、ひしと抱き合うてもくれたのに。

 「それ以上を言われると、久蔵殿を叩き起こしてけしかけますよ?/////////」
 「…判った判った。」

 けしかけるってお主、なかなか物騒な物言いをするようになったのだのと。意外なお顔ばかりを見せて下さる古女房へ、今度は少々困惑気味な、何ともしょっぱそうなお顔になられた御主だったが、
「そんな風に芝居がかって仰せになられてもねぇ。」
 今度こそは、楽しげに微笑い返せるだけの余裕が出来たなと、これは七郎次自身も感じた自身の変化。

 “確かにね、生きた心地がしませなんだ。”

 実は、本当は、どんなお仕事をなさっておいでなのか。手が足りないからと、連絡係に現場までを同行したことが幾度かあったその最初。殺気に満ちた見ず知らずの相手から、問答無用で発砲可能な状態の銃器を向けられた…なんていう、日本ではまずあり得ない修羅場にいきなり放り込まれて、
『いや、いくら此処が欧州でも、ああいった真似は立派な重犯罪なのだがな。』
 すまぬすまぬと、お主をこうまでの最前線へ連れ出す予定ではなかったと。腕やら肩やら、腿やらあちこち、凄まじいまでの傷だらけとなってた満身創痍の勘兵衛から“怖がらせた”と謝られ、全てを知ってしまってのそれからしばらくは。彼が今言ったその通り、任務だと告げられるそのたびに、

  ―― そんな危険なことへはもう関わりを持たないで下さいませと、

 真っ当なのに無体な我儘、言えない口惜しさに歯咬みして。せめてとすがりついての、引き留めたがっていた七郎次だったのだけれども。

 “そんなことをしたって、何の実りもありませんし。”

 それどころか。不安な様子で送り出せば、それだけ勘兵衛への負担にだって成りかねぬ。集中の必要な、それは危険な立ち会いに望む場合だって多々あると、知っているからこそ、待っている自分は…気丈になった振りをして せいぜいどっしりと構えていた方がいい。そうと気がついたのは、さて いつの頃からだったろか。

 “居残る者には それがお役目、なんでしょうから。”

 発ってゆくお人の負担になってどうするかと、留守居の心得をわざわざ学ぶことなく身に添わせ、そんな胸中さえ誤魔化す頬笑みにこそ、磨きをかけたつもりの古女房だったのだけれども、

 「ならば。心残りのないように、今宵の務めは励んでもらうからの。」
 「…えっと。/////////」

 そんなささやかな心掛けへ、どこまで気づいておられるものか。野性味あふるる精悍な笑みに、その口許をにやりとほころばせ。だのに瞳は優しいままにて、まじと見つめて下さる御主にあっては。たかだか十年足らずで築いた背伸びも届かずの、ただただ恐れ入るばかり。延ばされた手のひらに、頬や首もと慰撫されただけ。だのに、あっと言う間に火がついてしまう不束者を、それは軽々抱え上げ、寝間まで運んで下さる雄々しさへ。いつになったら並べるものかと、思い煩う心地さえ染め上げて。頬寄せた懐ろには、猛々しい雄の香りが匂い立つばかり…。








おまけの翌朝へ。→***